1974年~75年に起きた企業連続爆破事件の重要指名手配犯で、「東アジア反日武装戦線」のメンバーだった桐島聡容疑者と思われる男性の身柄が確保されました。
あまりにも長い逃亡期間だったこともあり、桐島聡容疑者のことを知らない方も多いと思われます。
一体どのような人物なのでしょうか?
そこで今回は、
桐島聡のwiki経歴!
桐島聡の学歴!学校は明治学院大学!
桐島聡の生い立ちが壮絶!
をお伝えしていきます!
最後までお楽しみください。
目次
桐島聡のwiki経歴!
桐島聡のwiki経歴をみていきましょう。
1975年4月 | 東京都新宿区歌舞伎町の大衆料理店でアルバイト |
1975年4月19日 | 東京・銀座の韓国産業経済研究所の入り口付近に手製の爆弾を仕掛け爆発させる |
1975年5月20日 | 銀行で現金をおろす |
1975年5月31日 | 父親に電話した後、消息不明に。 |
年代不明 | 海外逃亡 |
~2024年1月 | 神奈川県内の工務店に住み込みで働く |
2024年1月25日 | 偽名を使い入院していた病院で本名の「桐島聡」と名乗り警察に身柄を確保される |
詳しくみていきましょう。
歌舞伎町の大衆料理店でアルバイト
桐島聡さんは1975年4月までは東京都新宿区歌舞伎町にある大衆料理店でアルバイトしていたという情報があります。
報道によると逃走の直前まではアルバイトしていたとのこと。
75年4月、在学中に東アジア反日武装戦線の「さそり」グループのメンバーとして事件を起こし、逃走直前まで、東京都新宿区歌舞伎町の大衆料理店でアルバイトをしていたとされる。
引用元:読売新聞
桐島聡さんが指名手配されたのは翌月5月のこと。
後述しますが消息を絶ったのが5月31日頃のようなのでそれまでは普通にアルバイトをしていたことから、桐島聡容疑者が犯行グループの一人だと知れ渡るまで時間がかかったのかもしれませんね。
爆弾を爆発させる
同年の4月19日に東京・銀座の韓国産業経済研究所の入り口ドア付近に手製の時限爆弾を仕掛け爆発させた疑いで指名手配された桐島聡さん。
桐島聡さんは当時21歳でした。
桐島聡さんが犯行を犯した際に所属していたのは「東アジア反日武装戦線」。
その中でもグループ分けされており、桐島聡さんは「さそり」のメンバーでした。
現金をおろし、父親と電話した後、消息不明に
桐島聡さんは事件を犯した約1か月後の5月20日に渋谷区内の銀行で現金をおろしています。
そして同月31日には実家(広島県)に電話をかけ、
「岡山の女と一緒にいる」と父親に伝えた後、消息不明になったとのこと。
この時点で桐島聡さんが爆破グループのメンバーだったと家族にはバレてなかったようですね。
桐島聡さん自身が捜査の手が及ぶ気配を感じ、ひとまず親を安心させるために電話したということなのでしょうか。
上記はあくまで私の推測ですので当時の状況など詳しく分かり次第改めて追記していきます。
海外逃亡
桐島聡容疑者は指名手配がされてから海外逃亡していた時期があるようです。
桐島容疑者が取り調べに対して海外逃亡していた旨の話をしているとされています。
捜査関係者への取材で男が「海外で逃亡生活をしていたが、最期は日本がよかった」という趣旨の話をしていることが新たに分かりました。
引用元:TBSニュース
本当に海外逃亡していたとするとなおさら気になるのが協力者の存在ですが、現時点ではまだ明らかになっていません。
49年も逃げ延びたことを考えると協力者はいたと私は考えています。
新たな情報が入り次第追記していきます。
神奈川県の土木工事会社で働く
桐島聡容疑者は事情聴取の際に、神奈川県藤沢市内で数十年間、土木工事会社で住み込みで働いていたと話しているそうです。
海外逃亡の時期と土木工事会社で働いていた時期は明確にわかっていません。
分かり次第追記します
入院先の病院で本名を名乗り身柄確保
桐島聡さんは2024年1月から末期ガンのため神奈川県にある病院に偽名で入院していたとのこと。
ですが1月26日に本名「桐島聡」と告白し警察に身柄を確保されています。
桐島聡さんは入院する1年前からガンをわずらっていたそうです。
そのガンが悪化して路上で倒れてしまい、病院に搬送されたようです。
入院先の病院で本名を名乗った理由は「最期は本名で迎えたい」からとのことです。
現在も事情聴取やDNA検査もされており、まだ桐島聡容疑者本人だと特定されたわけではありませんが、病気で亡くなる前にすべてが明かされることを願います。
1974年~75年に起きた企業連続爆破事件の重要指名手配犯で、「東アジア反日武装戦線」のメンバーだった桐島聡容疑者と思われる男性が身柄を確保されたというニュースが出ました。 交番や駅、普段何気なく通ってる場所にも指名手配 …
桐島聡の学歴!学校は明治学院大学!
桐島聡容疑者の学歴もみてみましょう。
1971年:広島県立尾道北高等学校卒業
1972年:明治学院大学法学部入学
詳しくみていきましょう。
尾道北高等学校卒業
桐島聡容疑者は広島県出身です。
出身高校も広島県立尾道北高等学校です。
現在の偏差値は64で広島県内の公立学校の中では上位5位に入っているためかなり頭がよかったのだと思われます。
明治学院大学法学部に入学
桐島聡さんは1972年に明治学院大学法学部に入学します。
偏差値は47.5-57.5と高校に比べるとやや低めにはなりますが、なんだか法学部というと大学内では頭の良い人がかようイメージがありますね。
桐島聡さんが事件を起こしたのは1975年。
つまり大学3年生の時期なので最終的に大学を卒業せず、逃亡生活となったわけです。
桐島聡の生い立ちが壮絶
桐島聡さんの生い立ちもみてみましょう。
桐島聡さんは1954年1月9日生まれ。出身地は広島県。
ご家族のことなどは現時点で情報がないためわかりません。
ですが、高校時代から全共闘の思想に共感し、大学在学中に左翼活動家の黒川芳正や宇賀神寿一と出会ったことがきっかけとなり、東アジア反日武装戦線に参加することになります。
全共闘とは、
「全学共闘会議」の略称。昭和四三年(一九六八)、各大学の学生が結集して、既成の自治会組織とは別に組織した運動体。のちに新左翼諸派も参加、当時の学生運動の中心的存在となった。引用元:コトバンク
そして「さそり」グループのメンバーとして武力闘争・テロ行為を行うようになったようです。
桐島聡容疑者は東アジア反日武装戦線メンバーの中で唯一一度も逮捕されていないメンバーということもあり、すでに歴史的ニュースにはなっていますが、本人と判明したときにはもっと大きな騒ぎとなるように思います。
今後の動向から目が離せません。
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