X JAPANのドラマーであり音楽プロデューサーのYOSHIKIさん。
世界的な影響力を持つロックスターはどのような環境で育ってきたのでしょうか。
今回は、
・YOSHIKIの家族構成
・YOSHIKIと母親の感動エピソード2選
・YOSHIKIの父親の死因を調査
をお伝えしていきます!
最後までお楽しみください。
目次
YOSHIKIの家族構成!
YOSHIKI(本名:林佳樹)さんの家族構成は父親(名前不明)・母親(林千恵子さん)・弟(林光樹さん)の4人であることがわかっています。
1965年11月20日に千葉県館山市の老舗呉服屋さんの長男として生まれたYOSHIKIさん。
幼少期は忙しい両親に変わって家政婦さんに面倒を見てもらっていたとのことです。
家政婦さんを雇えるほど裕福な家庭だったようです。
それではYOSHIKIさんの家族一人一人についてを深堀していきましょう。
YOSHIKIの父親はプロのタップダンサー
YOSHIKIさんの父親は家業の呉服屋を継ぐまでプロのタップダンサーとして活躍されていたとのこと。
父親と母親の出会いについてYOSHIKIさんはこのように語っています。
「お母さんが、お父さんのショーを見に行って、恋に落ちたんです。ピアノもやっていましたけど」
引用元:スポニチ
YOSHIKIさんの父親は音楽にも精通しており(特にジャズやクラシック)、YOSHIKIさんの誕生日には毎年楽器をプレゼントされていたのだとか。
4歳のときにはピアノ、10歳のときにはトランペットをプレゼントしてもらっています。
自宅近くのクラシックピアノ教室にも通っており、しばらくすると父親より上手になっていたのだとか。
YOSHIKIさんは小さい頃から重い小児喘息を患い、小学校中学年の頃には頻繁に入退院を繰り返しており、YOSHIKIさんが入院中に父親が持ってきてくれた偉人伝を読み、難聴を抱えながら数々の名曲を残したベートーヴェンに感銘を受けたそうです。
そんなベートーヴェンの影響もあり9歳のときにはピアノで作曲するようにもなったのだとか。
YOSHIKIさんはそんな父親が大好きだったのですが、10歳の夏頃にお父さんは突然帰らぬ人となってしまいました。享年34歳でした。(父親の死因については後述します。)
父親の死に気持ちが抑えきれず、気持ち悪くなるまで泣いたというYOSHIKIさん。
それ以降家族の間では父親の話は一切されなくなったそうです。
なんとも切ない話ですね。
YOSHIKIの母親は三味線奏者
YOSHIKIさんの母親(千恵子さん)は三味線が弾けたそうです。
プロとして活躍していたかはわかりませんが、父親・母親ともに音楽に携わっていたことで、YOSHIKIさんのミュージシャンへの道が開けたように感じています。
父親が亡くなられた後は千恵子さんが呉服屋を継いでいます。
呉服屋を営んでいたことから千恵子さんはYOSHIKIさんにかまってあげる時間がなかったと言っていました。
父親の死後、YOSHIKIさんはロックバンドにはまり始めます。
そんなYOSHIKIさんの11歳の誕生日に欲しがっていたドラムをプレゼントしたのが千恵子さんでした。
千恵子さんはKISSのライブにも連れて行ってあげたのだとか。
YOSHIKIさんはその時の様子をこのように語っています。
「母は“何てところに連れて来たの?”みたいな。お母さんは着物で行って、おすしを食べてたような気がしますね。僕はひたすら叫んでましたね」
引用元:スポニチ
このライブからYOSHIKIさんはよりロックに魅了されていったそうです。
中学・高校でのYOSHIKIさんは荒れに荒れた不良でしたが、千恵子さんはそんなYOSHIKIさんを見守り支えてきました。
しかし後日談で千恵子さんは子供の頃のYOSHIKIさんのことが怖かったと語っています。
父親の死後もYOSHIKIさんのことを育ててきた千恵子さんですが2022年5月に亡くなられました。
死因は公表されていません。
YOSHIKIさんも悲しみをあらわにしていました。
「世界を取りたい、世界を取るんだということがもう、ほぼ人生の全てになってしまって。(母と)一緒に過ごしたりという時間がほとんどなくて。そういった時間は自分が今後、何を成し遂げても取り戻すことはできないっていう、そういったことができなかった息子。親不孝な息子だったっていうのは、そこはすごく思いますよね」
引用元:スポニチ
文章からもYOSHIKIさんは母親のことを大切に思っており、悲しみの中にいることが伝わってきますね。
YOSHIKIの弟は元俳優でレーベル社長
YOSHIKIさんには4歳年下の弟・光樹さんがいます。
光樹さんは田辺エージェンシーに所属し俳優として活動していた時期がありました。
代表作には、
・ダブルキッチン(1993年)
・誰にも言えない(1933年)
・ハッピーマニア(1998年)
・やまとなでしこ(2000年)
などがあります。
芸能事務所を退所後、2002年から光樹さんはYOSHIKIさんの所属事務所幹部としてマネジメントなどを担当し兄を支えています。
2003年8月には「おかあさんといっしょ」で体操のお姉さんをしていた松野ちかさんと入籍。
2022年からYOSHIKIさんが立ち上げた「EXTASY RECORDS(エクスタシーレコード)」の代表取締役へ就任し、再始動プロジェクトを開始しています。
母から託されて、皆様から「伝説」と呼ばれている EXTASY RECORDS を認識し、再始動してみようと思い始め、無謀にも現在まで自己資金を投入し続けながら最低限の体制を整えてきましたが、さらにここから未来に向かって具体的に前に進めるために、ぜひ皆様にご協力・ご参加を頂き皆様と一緒に EXTASY RECORDS の未来を築いて行けたら幸いです。
ここでも母親・千恵子さんの影響があったのですね。
YOSHIKIと母親の感動エピソード2選
父親の死後もYOSHIKIさんを育て上げた母親・千恵子さん。
ここからはYOSHIKIさんと千恵子さんの間に生まれた感動エピソードを紹介していきます。
どんなに荒れても母親との約束は絶対
前述のとおり中学・高校と荒れていたYOSHIKIさん。
大人への反抗心むき出しでしたが、そんな中でも母親と交わした約束は必ず守っていたとのこと。
・シンナーやドラックに手を染めない
・窃盗や暴行はしない
・受験勉強はする
特に勉強面においては、不良でしたが成績は優秀で偏差値59の安房高等学校へも入学出来たほどでした。
レコーディング費用を肩代わり
1988年のデビューアルバム「VANISHING VISION」は自費制作となり、リリースするためには1000万円必要でした。
当時インディーズバンドだったYOSHIKIさんは母親の千恵子さんに貸してもらえないか頼んだそう。
千恵子さんからは「そろそろバンド辞めたら?」「そんなお金ない」と言われたのだとか。
しかし翌日になって銀行口座に1000万円の入金があり、無事アルバムをリリースすることが出来ました。
どんな苦言を呈してもやはり息子のことを想っていたエピソードだと感じます。
そんな魂のこもったアルバム「VANISHING VISION」は初回プレスで1万枚以上を売り上げ、オリコン週間チャートで最高19位を記録。
当時のインディーズバンドとしては記録的なセールスを達成してます。
「Anniversary」誕生の陰に母の言葉
YOSHIKIさんは2000年に開催された「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」に母親と参加されています。
ここで披露されたYOSHIKIさん作曲の奉祝「Anniversary」が誕生していますが、母(千恵子さん)からの一言がなければ誕生していなかったかもしれません。
YOSHIKIさんがこのオファーを受けるかどうか迷っていたそうです。
それを母(千恵子さん)に相談したところ、
「素晴らしいご縁をいただけたことに感謝して、やってみたらどう?」
と背中を押してくれたとのこと。
YOSHIKIさんにとって母親(千恵子さん)の存在はいつの間にか生きる指針になっていたのかもしれないと個人的には思いました。
YOSHIKIの父親の死因を調査
YOSHIKIさんの父親は10歳の頃になくなっています。
YOSHIKIさんが器楽クラブから帰ると、布団に寝かされ顔に白い頭巾をかぶってる父親の姿があったといいます。
親戚からは病気で寝てるだけと聞かされましたが、YOSHIKIさんはすぐに異変を察知して死を実感したのだそうです。
「最初はよく分からなかった。夢を見ているのかなと。みんな泣いているので“ああ、死んだんだ、寝ているんじゃないんだな”と…」
引用元:スポニチ
死因は自殺。
どのような自殺方法かは公表されていないためわかりません。
大好きだった父親の死。
今でも受け入れられないとのこと。
「でかいクエスチョンマークが生まれてしまったわけじゃないですか?そのクエスチョンというのはね、解けない。答えのない(問題)」
引用元:スポニチ
しかし、父親がいなかったらYOSHIKIさんが音楽の道に進まなかったかもしれないことを考えると、父親と一緒に過ごした10年はYOSHIKIさんにとって何ものにも代えがたいものだったのだと感じます。
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